「手を繋ぐ」
尚敬高校校門前、午前八時半。
ぽつんと立ち尽くす人影がひとつ。
黒のゴシックロリータ調の洋服を身に纏うその少女の名は、石津萌その人であった。
今日は、珍しく取れた日曜日。
せっかくなので小隊のマスコット猫ブータと一緒に、こっくりさんでもやろうかと、思慮をめぐらしていた、はずだった。
話の大元は一週間ほど前に遡る。
とある晴れた昼下がり。
食堂で萌は親友の新井木と昼食を取っていた。
きっかけは彼女のとある一言から始まる。
「ねー、そういえば最近先輩とはどうなのよー?」
弁当片手にあたり構わず大声を出す新井木。
「…どうって…何が?」
「もうっ、萠りんてば鈍すぎ。先輩って言ったら来須先輩に決まっているじゃない。…それで、どこまで進んだのさ」
新井木は相変わらず、興味津々な様子でこちらを伺っている。
「…どこって…な…にもない…わよ」
「ええっ? キスとかもされてないの?」
新井木は豆鉄砲を食らったかのごとく、驚きを顕わにした。
当の萠自身はさして驚いた様子もなく、目の前の弁当箱に入っている厚焼き玉子を口に運ぶと、そのまま頷いた。
「だ、だってそれっておかしいよ、絶対。先輩だって、ほらやっぱり男の人だし。
がばっと襲ってきたりとか、…本当に何もないの?」
新井木はまだ納得できないといった面持ちで萌のほうを見やる。
「…それって…やっぱり…おか…しい?」
こうもしつこく否定されては、いい加減自分の行為が普通のカップルと違っていると思い始めたのか、
少し悲しげな顔を浮かべる萌。
「もっとこうさあ、二人でデートに行くとか色々あると思うのよ。
命短し恋せよ乙女ってね。いつ死ぬかもわからないし遊んどかないと損じゃない?」
自分の発言にうんうんと頷く新井木。
「…デート」
一人そうつぶやく萌。
思えば、生まれて今まで一度もデートなるものを体験していなかったことに気づく。
「…ねえ、デート…ってどうすれ…ばいいの?」
不安げな顔で質問をする萌。
「ん? それはやっぱりほら二人で映画館とか、どこか美味しいもの食べに行くとかあるじゃん。
といってもこのご時世だし、後者は期待できないけどねえ」
腕を組みながら、まるで自分の事のように悩む新井木。
萌は、そんな新井木を傍目で見やりつつ、どんな状況であっても自分を卑下することの無い彼女に、
不思議と信頼感さえ覚え始めていた。
「そうだっ! 丁度いいものがあるよ、萌りん。なんとここに熊本博物館の入場券が二枚。
これを使って来須先輩とお出かけしてきなよ。
萌りん、いっつも詰所でアヤシイことばっかりしてるし。もっと健全にいかなきゃね」
「…えっ、いいの?」
「当たり前だよ、親友の恋路を応援しなくて、何が親友よ。気にしないで使って」
「…ありがとう」
萌はチケットを受け取ると、無言で頭を下げた。
さて、所変わって、ここは正面グランド。
五一二一小隊にて、戦車随伴斥候歩兵(通称スカウト)を勤める来須銀河は、
相棒の若宮と共に、今日も熱心に仕事を黙々とこなしていた。
「おう、来須よそろそろ上がるか」
「…そうするか」
若宮に促されて、走りこむ足を止めるとしきりに流れ出る汗をタオルでふき取る来須。
「そういや…お前。最近あの子とはどうだ?」
どかっと勢いよく階段に座り込み、牛乳を飲みながら話し始める若宮。
「…なんのことだ」
そうつぶやくと、尚も汗を拭き続ける来須。
「何のことってお前、石津のことに決まってるだろう。
奥手なお前のことだ、ちゃんと相手してやっているのか心配でなあ」
ガハハと牛乳瓶片手に豪快に笑う若宮。
「…余計なお世話だ」
来須はそう言うと、着替えの傍に置いておいた彼のトレードマークというべき白い帽子を掴むと、
表情を悟られぬように深くかぶった。
そんな来須を横目で見つつ、呆れる若宮。
「まったくお前らしいというかなんというか。たまの日曜ぐらいデートにでも誘ってやらんと、嫌われちまうぞ?」
「…俺は人込みが好きではない」
そういい残し、着替えの詰まった鞄を抱えて立ち去ろうとする来須。
溜まらず若宮は、彼の頭を鷲づかみにしてそのまま羽交い絞めにした。
「よせっ、若宮」
必死に背中を叩いて、難から逃れようとする来須。
「お前なあ、言葉が足りないのも大概にしとけよ。好きなら好きと言ってやれ。
恋人を泣かせるようなやつが平和を守れると思っているのか」
若宮はやれやれと言った表情で、腕をほどいた。
「今の時間帯なら詰所にいるはずだ。彼女のことが好きならちゃんと大事にしてやれ。
でないと…きっと後悔する」
「…すまない」
来須は帽子ごしに謝ると、校舎側へ走っていった。
「…と、こんな感じでいいのか新井木よ」
若宮の問いにひょこっと、物陰から姿を現す新井木。
「ありがと、若宮先輩。あの二人のことだもん外部からこうやって突っついてやらないと中々進展しないんだもん。
やきもきするよまったく」
「お前…でも本当にいいのか?」
「ん? 何が?」
「お前だって来須のこと…」
そこまで言いかけた若宮の口を押さえる新井木。
「ちっちっち、判ってないなあ先輩も。そんなの昔のことだよ。今は…若宮先輩一筋だよ」
そう言いつつも、うっすらと目に涙を浮かべる新井木。
何も言わず、そんな新井木を抱きしめる若宮。
「へへっ、若宮先輩てばやさしーっ。ボクが泣くわけないじゃない。驚いた?」
「まったく…お前ってやつは」
あくまでも虚勢を張ろうとする新井木の頭を軽くこづく若宮。
所変わって、ここは整備員詰所。
萌は、新井木にもらったチケットを、机に置いたまま、心ここにあらずといった様子で
救急箱の整理をしたり溜まった洗濯物を片付けたりしていた。
「…萌、いるか」
静かに、詰所の戸を開けて中に入る来須。
「…どう…したの?」
新井木に言われてからというもの、どうも来須のことを意識してしまって、
萌はまともに来須の顔を見ることができず、うつむきがちに来須の方をみやる萌。
「…日曜は空けておけ。たまには外へ出るのもいいだろう」
来須はそういい終えると、帽子を深くかぶり直した。
「…えっ…それって…デート?」
萌のその問いに黙って頷く来須。
「…ど…しよう。凄く…嬉しい。ありがとう」
萌は泣きそうになる自分を必死に抑えながら、黙って頷いた。
しばし、無言が続く二人。最初に切り出したのは萌のほうだった。
「でも…いいの?」
「…何がだ」
「日曜…私が一緒に…いても…迷惑じゃ…ないの?」
不安げな表情しつつ、来須のほうを見やる萌。
「…当たり前だ。お前以外とは一緒にいても正直…疲れるだけだ」
「…そう…なの?」
「ああ、だから俺の前では気を遣わなくていい。お前はそのままで十分だ」
「…ありがとう」
萌はそう言うと、照れて下を向いた。
さて、場面は再び尚敬高校校門前。
時計の針はゆうに九時前を指そうとしていた。
萌は、一人校門前で待ちぼうけをくらっていた。
「…遅い…わ」
萌は腕時計とにらめっこしつつ、今か今かと来須の訪れるのを待っていた。
「…遅くなったな、すまない」
ようやくお出ましの当人は、帽子を外してうな垂れた。
「…大丈夫、それ…ほど遅れて…いないもの。
でも…一体…どう…したの?」
「実は、若宮がこれを持って行けと五月蝿くて」
そう言うと、来須はバラの花束を取り出すと、萌に手渡した。
「…こういう真似は俺には似遣わない」
それきり来須は照れたのか、明後日の方向を向いた。
「…あり…がとう、大切…にするわ」
萌は、思いがけないプレゼントに驚きを隠せなかったが、それ以上に喜びの念が強かった。
「…行き先はお前に任せる。何処へ行くんだ?」
「…ここへ、行き…ましょ」
萌は、新井木にもらった博物館の入場券を来須に見せた。
「…いいだろう。行くか」
来須は帽子を深くかぶりなおすと、新市街へと歩き始めた。黙って後ろをついていく萌。
熊本の博物館は、地方都市のしがない立派な所蔵物で知られている。
プラネタリウムもあり、しばしばデートにも使われているようだが。
戦争の影響か、今日はまばらにしか人がいない。貸切状態だ。
展示物を一通り見終えた後、折角なのでプラネタリウムにも寄っていくことになった。
ただどっちがそうしようと言い出したわけでもなく、気が付けば自然の流れでそうなっていた。
プラネタリウムのほうも、人気まばらで閑散としていた。
それでも暗がりの中、スクリーンに映し出される星空の輝きは、変わらぬものを持っていた。
開始のブザーが鳴り、スクリーン上に星座が映し出されていく。
何を言うわけでもなく、二人は流れていく星の様子を見ている。
不意に暗がりの中で、胸のボタンを外し、肩を見せる萌。
何かを押し付けられてできた火傷のような跡が見える。
「…これでも…いい…」
萌は来須のほうを見上げた。袖を掴む手が小刻みに震えている。
何を言うでもなく、静かに頷いてみせる来須。その様子に安心したのか、萌は来須の肩に身を寄せて、目をつぶった。
彼女の目元には、うっすらと涙が浮いていた。
博物館を出る頃には、既に日は沈み、あたりは夕闇の帳に包まれていた。
どこか遠くの彼方を見やるような目をしながら歩く来須。
そんな来須の後ろを変わることなくついて歩く萌。
来須は歩調を速めるでもなく、かといって遅らせるでもなくただ黙って歩く。
背中が広く、大きく見えた。
萌は、小走りで来須の隣に並ぶと、おそるおそる手を伸ばし、彼の手を握る。
「…昨日ね、占い…をしたの。手を握っても…嫌われないかって…」
萌は大事そうに、来須の手を優しく握りながら、そうつぶやく。
来須はその手を振り解くどころか、壊さないように強く、握り返し、もう片方の手で帽子をかぶり直す。
萌は、その様子に安心したのか、普段は決して誰にも見せることのないぐらいに、微笑んだ。
二人の面影は街灯に照らされて、ゆっくりと彼方へと消えていった。
強く手を握り締めあうその様は、まるで二人の絆の強さを象徴しているかのようだった。
どうかこの二人に永久に幸あらんことを。
〜終〜