墓標
赤い、どこまでも赤い地平線がひどく禍々しいものに見えた。
夕暮れは夕暮れだ。
そう自分に言い聞かせてみても、ザラついた感覚が晴れることはなかった。
若宮康光は一度天を仰ぎ、小さく息をつくとのっそりと立ち上がった。
戦闘が終わって15分も経たないというのに、静寂が辺りを包んでいる。
ときおり風に乗って聞こえてくる、死にかけた兵士のうめきもその静寂を際立たせている。
その声もすぐに聞こえなくなった。
肩に突き刺さった破片が痛んだが、動けないほどではなかった。
敗けた。
戦闘には勝利した。だから今、こうして自分は幻獣のいない荒野にたたずんでいられるのだ。
だが、戦争には敗けた。
九州からの完全撤退が決定した時点でそれは決まっていたのだ、と思う。
ずっと、敗けるために戦っていたような戦争だった。
あの、熊本城での戦い以来続いた、長い長い負けいくさだ。
そうだ。
あの時も戦闘には勝ったのだ。
だが、そのかわりに小隊結成以来初の戦死者を出した。取り返しのつかない、たった一人の戦死者だった。
「若宮戦士」
ふいに声をかけられた。
ふと横を見ると、いつの間にか見慣れた顔が並んで歩いていた。
善行忠孝。
指揮車が大破したという報告を聞いたのは午前中のうちだったように思う。
それ以後は他の小隊の指揮下を転戦するように戦ってきたのだ。
まさかこの男が生きているとは思いもしなかった。
「生きておられましたか」
つい口に出た。
「死に切れず、といったところですがね。なぜかまだ生きています」
自嘲するような響きではなかった。
ただ言っただけのように聞こえた。この男にしては珍しいことだ。
完全に日が落ちると、もうそれ以上歩くことは危険だった。
適当な廃墟に身を寄せ、そこで夜を明かすことにした。
懐からタバコを取り出した善行が一本を口にくわえ、箱をこちらに差し出してきた。
「どうぞ。最後の一本です」
普段なら断るはずが、このときだけは吸ってみようという気になった。
ゴロワーズ。
クセの強いタバコだった。慣れない者ならばむせ返るほどきつい。
この上官は、出会ったころからこのクセの強いタバコを吸っていた。
好きな小説の主人公が好んだ銘柄だという話を聞いたのは、ずいぶん昔のことだったように思う。
老いぼれた犬のような男が主人公の小説で、それもこの男には似合っているような気がした。
肺にまで煙を流し込み、ゆっくりと吐き出す。
口の中がひりつくような感覚が、今は奇妙に心地よかった。
「あなたがタバコなどを吸っているのは、ずいぶんと久しぶりな気がしますね」
同じようにタバコをふかしながら、善行がつぶやいた。
「別に意識して吸わなかったわけではありません。ただ、好きになれなかった。今は、そう悪くないという気がします」
肺を満たしてゆく煙が、自分の心までも隠してくれそうな、そんな気分だった。
戦場では、上官は感情を隠すためにサングラスを着けるのだ、といった男がいた。
タバコを吸うことも同じなのだとしたら得心がいく。
埒もないことを考えていた。
なんにしろ、自分たちは戦場にいて、しかもまだ生きている。
考えるべきことは他にあるはずだった。
そんな思いを見透かしたかのように、善行が口を開いた。
こんな戦況でさえなければ、充分な衝撃を与えたであろう報告を以って。
「全滅…でありますか?」
問い返したその言葉が、いやに現実感の無いものとして自分自身の中に響いた。
善行はこちらを見もせずに眼鏡を押し上げると、再び口を開いた。
「ええ、我らが5121小隊は無事本土へ帰還した数名を除いて全滅。つまり我々はすでに死んだことになっています」
芝村準竜師だろう。未確認状態であろうともアッサリと死者にしたてあげてしまう。
非情な措置ではあるが迅速な決断であるともいえた。
内心、さすがに上に立つものだな、と舌を巻いた。
彼は自分が見捨てた者たちの死を永遠に背負う覚悟がハナからできていたという事になる。
そうでなければこれほど冷徹な判断を即座に下せるものではない。
善行も同じことを感じ取っていたらしく、皮肉めいた笑顔さえ浮かべている。
だが、その顔が急に底意地の悪そうな、普段のこの男の顔に戻った。
「とはいえ、我々も黙って死人になる事は無い、と思いますね」
善行が言うには、明日早朝に最後の輸送機が発つのだという。
この撤退作戦に際し、秘密裏に戦闘記録及び実戦研究を行っていたグループを救出するための機で、
表立っては報告されない、されてはいけない最後のフライトであった。
それに上手くもぐりこめば帰還できるのだ、という。
若宮は吹き出しそうになった。
上手く、も何もあったものではない。
この男がここまで調べ上げているということは、交渉という名の脅しによって自分たちの身の安全を
保障させるくらいの計算がすでになされているということである。
つまり、いつこの情報を手に入れたのかは知らないが、その瞬間から善行は生き延びるための策を練っていたということだ。
「本当に、あなたはいい上官になりましたね、ミスター」
指揮官は死んではならない。
前線にありながらその基本を守ることができる稀有な例である、と言ったつもりなのだが、善行は少しいやな顔をした。
このあたりの正直さ、人間臭さは今のような状況においては少々鼻につく。
いい上官ではあってもいい軍人ではない。かつてこの男をそう評したことがある。
最後まで評価は変わらないままになりそうだ。
ここまで来ておきながらおめおめと生き残る。そのことに対してそれほどの抵抗はなかった。
少し残念な気はする。だがそれはそれだけのことだった。生き延びることが出来るなら、生きる。
そんな当然の選択まで見失うほど、追い詰められているわけでもなかった。
戦場では、死にたがりから先に死んでいく。
生き残ってしまう自分はよほど業の深い人間だった、ということか。
全身の力が抜けてしまったような気分だった。
力だけではない、何かもっと自分自身の奥深い部分にあるものごと、根こそぎ失ったように思えた。
「一時間後に離陸ポイントへ向けて出発します。それまでは少しでも体力の回復につとめることですね。
もっともあなたにとっては言われるまでもないでしょうが・・・」
善行の声がやたら遠くに聞こえた。落ちるような感覚と共に、若宮は束の間意識を失った。
足が重い。
かつてどれほど過酷な行軍であってもバテた経験などない若宮にとって、この程度のピクニックなど何でもないはずであった。
いま若宮の足にぶら下がっているのは単純な疲労だけではなさそうだった。
それが何であるのかは分からない。ただ、陰鬱な何かが強く引っかかっている。
指に刺さったトゲのようにもどかしく、不愉快な感覚だった。
さすがに様子がおかしいと気づいたのだろう、善行が怪訝な顔をしている。
うるさげに手を振って若宮は心持ちペースをあげた。
数瞬若宮を見つめていた善行だが、何も言わずに再び歩き出した。
―――感傷的になっているな、俺は。
わざと自嘲するように鼻で笑ってみせた。下士官としてヒヨコたちに教えた心構えとはまるで正反対の体たらくではないか。
ひどい落ちこぼれ集団だった5121のヒヨコたちを、直接鍛え上げて前線に立たせたのは若宮だった。
チカッと、何か見えたような気がした。不可解な感覚、見えないトゲ、その姿が―――。
善行のウォードレスに装備された端末から、あまり穏やかでない警告音が鳴ったのはそのときだった。
「201-V3…? しかもこの反応は…なるほど、とどめ、というわけですか」
善行の声音がことさらに穏やかなものになっている。状況はかなりよくないらしい。
「V3…実体化は夜明けと共に、といったところですな」
離陸ポイントであるベースまでは三キロほどしかない。この場で実体化を始めれば、夜が明けきる頃には
間違いなくベース近くまで進攻してくるだろう。
「急ぎましょう、離陸予定を早める必要がありそうです」
善行の言葉に、若宮は不可解な戸惑いを覚えた。
善行の判断は反論のしようも無いほど的確で、また当然だった。
にもかかわらず若宮の、足元から這い上がってくるような、まるで重大な忘れ物をしているような不安は
大きくなるばかりだった。
突然。
若宮の脳裏に、さきほどちらりと見えかけたそれが徐々に浮かび上がってきた。
それは、自分だった。
なんの繕いも飾りも無い、ありったけの自分だった。
軍人でも、部下でも、教官でもない、ただの若宮康光がそこに立ち、強い瞳でこちらを見ていた。
その瞳にうつる自分の、なんと小さく、なんと弱々しいことか―――。
ふいに、若宮は理解していた。
復唱がないことに振り向いた善行は、そこにじっと立ち尽くす若宮の姿を見た。
「若宮戦士、聞こえませんでしたか?急ぎますよ」
「善行万翼長殿、自分はここで幻獣を迎え撃ち、最終輸送機の離陸を確実なものにしたいと思います」
若宮の言葉に、善行は唖然とした。
この男のこのような顔などそうそう見られるものではない。若宮はまるで他人事のように微笑んだ。
その顔がただならない若宮の意志を伝えてしまったらしい。
善行は表情を消した目でこちらを見据え、ひとつ大きく息を吸った。
「無意味だ。おやめなさい若宮戦士。ここにはもう守るべき何も無い。帰還しさえすれば再び戦うことも、
新たな安らぎを得ることもできるのですよ」
死ぬためだけにこの場を守る。自分の姿がそんな風に映ってしまったのか。
違う、と若宮はすぐに気づいた。この男は解っている。
若宮の心情を、おそらくは若宮自身よりも先に理解していたに違いない。
そして、若宮がその心残りの正体に気づいてしまうことを恐れていたのだろう。
ならば、格好つけた建前の理由など必要ない。いくらか気が楽になった。
こうなれば、正直に話すほうが小難しい理屈をならべるより簡単だった。
「背中を預けた戦友も慕ってくれた女も、かけがえのない友さえも自分はここで失いました。
自分は全てを失いましたが、同時に全てのものはここにあります」
若宮の声には、かつてないほどの張りがあった。それまであった迷いなど微塵も感じられない。
生きることに対する執着の温度に、差がありすぎた。
それは、死にたがっているというような話ではなく、自分の生き方をどう定めたか、というだけの違いだった。
そして、若宮は最後までここで戦うことを選んだ。いや、とっくに選んでいた。
部下と上官の会話でありながら、それは強烈な男と男のぶつかり合いでもあった。
「…ひとつ聞かせてください、貴方は何故、こんなことをするのです」
善行にしては正直すぎるほどまっすぐな問いだった。
しばしうつむき、若宮はほれぼれするような笑顔と共に、言い放った。
「この熊本の地には自分の全てが葬られている。ならば、この身をもってその墓標としたいと思うのは、
感傷的に過ぎるでしょうか」
善行は何も言えなかった。言えるわけが無い。
ありったけの自分を以って恋しいと思える女が一足先に本州で待っている。
そんな自分が、全てを失い、それでも手放せずにいるこの男に対して言えることなど何もあるわけがなかった。
自分も共に、と言いかけて善行はやはりその言葉も飲み込んだ。
若宮が許すはずも無い。
仮に自分が彼と共に残ったとしても、この哀しい男の死に場所をむやみに荒らしてしまうことにしかならない。
長い、沈黙があった。
善行の拳が、固く握り締められていた。
殴られるのかも知れない、と若宮は思った。それも悪くない別れだ、とも。
しかし、固く握られていた善行の拳はゆっくりと開かれ、彼は顔を上げてわざとらしいほどに姿勢を正した。
先ほどまで震える拳だった右手が、最敬礼の形となって若宮に向けられた。
「しっかりと殿軍(しんがり)をおつとめなさい、若宮戦士。凱旋をお待ちしています」
それだけを言うと、少し間をおいて善行は背を向け、歩き出した。
これは効いた。
この男は、どこまでも自分をたった一人の若宮康光としては死なせてくれないらしい。
殿軍をつとめる、ということは撤退する軍の後ろを守れ、ということである。
人類の殿軍として、そして今は無き5121小隊の一員として、最後まで闘えということであった。
不意に、涙がこぼれそうになった。
一人じゃない。無駄死にじゃない。今の今まで気にもしなかった事が、激流のように胸を打った。
頬を伝い落ちる雫を見ずに去った善行に、若宮は長い間敬礼の姿勢を崩さなかった。
ただ一人歩いてゆく善行の背中には、もはや何の迷いも未練も残されてはいなかった。
ただ小さくなってゆくだけの、男の背中だった。
白々と、夜明けの気配が忍び寄っていた。
少しずつ明るさを増す紫色の空を見上げ、若宮はただ一人立っていた。
ただ一人、若宮。
閉じられた目にもフィルターだけになったタバコをくわえた口元にも、ほんのりと微笑みさえたたえられている。
やがて、若宮の周囲に幽鬼のような影がその姿を現し始めた。
数百にもなろうかという幻獣がその姿を実体化し、赤い瞳に光が宿される。
彼ら―――そう呼んで構わないのならば―――は、自分たちに囲まれて立つ、この愚かな人間の姿に戸惑っているようにすら見えた。
若宮の瞳が、ゆっくりと開かれる。
辺りを見回し、軽くため息をつくと、次いで大きく吸い込んだ。
それは、まさに野獣の雄たけびだった。
物言わぬ、感情さえもないはずの幻獣たちがその響きに圧倒された。
次の瞬間には、若宮を囲んでいた十数対の幻獣が射ち貫かれ切り裂かれ、あるいは撃ち砕かれて吹き飛んだ。
「5121小隊戦車随伴歩兵若宮康光、故あって人類の殿軍を担いうける!たやすく抜けると思うな!!」
芝居がかったそんな名乗りをあげると、若宮は走り出した。
早い。速い。疾い。
射線に入るものを射ち倒し視界に入るものを薙ぎ払い、無人の野を駆け抜けるがごとく若宮は走った。
すれすれを生体ミサイルが飛び、寸前までいた場所をレーザーが集中照射する。
リテゴルロケットすら尽きたスカウト一人を、百匹以上の幻獣が仕留めきれずにいる。
それは異様な光景であった。
ぐわん、と頭のすぐ脇をミサイルが通り抜け、衝撃を置き土産にして行く。
その衝撃に乗るようにして、振り向きざまに機関砲をめくら射ちした。
着弾さえ確認せず、爆煙舞い上がる前方へ飛び込む。
振り下ろされたミノタウロスの剛拳をカトラスの鎬で流し、逆に脇下から突きあげる。
そのまま腕を切り飛ばし、返す刃で首を落とした。
があん、と強い衝撃。背中。
ゴルゴーンの体当たりに吹っ飛ばされ、倒れた若宮に数匹のゴブリンが踊りかかる。
斧が振り下ろされる直前で、仰向けのまま腰だめにしたサブマシンガンがゴブリンを撃ち落した。
転がって距離をとり、立ち上がると若宮は再び勢いに乗って駆け出した。
5121小隊、だった。
たとえ自分ひとりであろうとも、すでに全滅したことになっていようとも、若宮は5121小隊だった。
背中を預けた、無口な戦友がいた。
自分を慕い、戦場にまでついて来た強情な女がいた。
少女のような顔で、かけがえの無い友が微笑んでいた。
幼いオペレーターの声が聞こえていた。
騒々しいヒヨコのわめき声までが届いてくるようだった。
仲間たちが、いた。
自分は今ひとりじゃない。そのことがひどく心を強くした。
いつの間にか口ずさんでいたその歌が、力を与えてくれた。
やがて、そこに実体化した全ての幻獣は、ベースへの進攻を止めてたった一人の若宮へと向かいはじめた・・・。
立て続けに打ち込まれたミサイルが、瓦礫と破片を容赦なくぶつけてきた。
降り注ぐ破片の間を縫うように駆け、最後の弾丸をナーガにぶちこんだ。
こわばった右手から無理やりサブマシンガンをむしり取り、投げ捨てる。
カトラスを左手から右手に持ち替え、右横の空間を薙ぎ払った。
飛びかかろうとしていたゴブリンが真っ二つになって落ちる。
正面からミノタウロスの拳が振られる。余裕を持ってかわせるタイミングだ。
飛び下がろうとした右足に、衝撃を受けた。
痛み、ではない。右腿にとつぜん強烈な温度が発生したように感じた。
ナーガのレーザーに貫かれたのだ、気づいたのは一瞬の後である。
その一瞬に、巨大な拳が若宮の体を横殴りに吹っ飛ばしていた。
地面に叩きつけられ、口から鮮血がしぶいた。
倒れた若宮に生体ミサイルが降って来る。
直撃はしなかったが、爆風と衝撃をモロに受けて大きく飛ばされ、壁に激突した。
―――どこか遠くで、声が聞こえたように思えた。
聞き覚えのある声。
視界も、感覚もおぼろになっていた。
強い陽光が射していた。
手を突いて立ち上がろうとして、そのまま横に倒れこんだ。
右腕が、根元からなくなっていた。
やけにまぶしい朝日に顔をしかめ、体をよじって上体を起こし、天を仰ぐ。
ころん、とちぎれたウォードレスの隙間から何かが転がり落ちた。
のろのろと、左手で拾いあげる。
それはこの殺伐とした、そして哀しい戦場にはあまりにも似合わない、可愛らしいうさぎのアクセサリーだった。
いつまでも昇進しない若宮のためにあの女が、自分を慕ってくれたあの素直じゃない女がよこしたものだった。
軍が認めなくても、あたしはアンタを認める。これはその証みたいなもんだ。
そう言って、真っ赤な顔で。
「まったく、あいつらしい…」
若宮の口元が、微笑みに彩られた。
「今日は…いい、天気だな…」
もう一度明けたばかりの空を見上げ、若宮はかすれた声でそうつぶやいた。
その上を、大型の輸送機が飛び去って行くのが彼には見えていただろうか。
完全に動きを止めた若宮を、幻獣たちが輪を作るようにして囲んでいた。
少し前に出たゴブリンが、一歩出ては飛び退るように輪に戻る。
よく見れば、若宮の体にはいたるところに破片が突き刺さり、焼け焦げ骨が見えている部分まであった。
やがて、囲んでいた幻獣たちの輪が少しずつ小さくなっていった。
そのとき、若宮の左手がだらりと落ちた。
ざわつくように少し下がる幻獣たち。
その左手には、血に汚れた小さなウサギのアクセサリーがしっかりと握られていた。
と、その左手を中心にして、蛍のような青い光がポツポツと集まり始めた。
それは次第に数を増し、やがて若宮の体を包むように守るように、いつまでも周りを漂っていた。
幻獣の輪が、それ以上小さくなることはなかった。まるで、若宮の周囲をてらす青い光に遠慮するかのように。
陽はすでに高く昇り、やわらかな陽射しがキラキラと輝いていた。
三ヵ月後、山口県下関。
あの九州撤退戦において散った多くの兵士たちを追悼する碑の前に立ち、善行はその向こうに見える九州であった陸地を眺めていた。
その後ろに立つ女性が風になぶられる髪をおさえながら、善行に歩み寄った。
「結局、ウチの子たちは誰一人としてこの碑に名前を刻ませなかったのね」
女性の声には、少し揶揄するような響きがこめられていた。
「速水君も田代さんも来須君も、みんなまだ死んでないって言いたいの?…若宮君も」
その言葉を最後まで聞かず、善行は振り向いた。
「そんな感傷で彼らの名前を削らせたわけではありません。ただ、彼らの名はこんな碑ごときに刻まれていいものではない。
それだけです」
予想外に強い口調に、女性はやや面食らったようだった。
「素子さん、僕はね…彼らが名を刻む墓標があるとするなら、それはあの熊本の大地でしかありえないと思っています。
彼らが、我々と共に戦いぬき、生き抜いたあの大地しか」
女性―――原素子は、ゆっくりと善行に寄り添うようにして立つと、微笑んだ。
「充分に感傷的だわ、あなた」
その声が聞こえたのか聞こえなかったのか、善行はじっと九州を眺め続けるだけだった。
強い、風が吹き始めていた。
(終)