「クレヨン」
それはとある何気ない一言から始まった。

ここ熊本は梅雨の時期にさしかかったことで、連日雨がひっきりなしに降り続けていた。
元々建てつけの悪いプレハブ校舎なため、雨漏りが酷く、それに伴い仕事量も増える一方であった。
司令という立場とて、情況は同じで、湿気こもる司令室で、真夜中まで作業する日が続いた。

「いいんちょー、ちょっといいですか?」
司令室のドアをノックする可愛らしい声が聞こえる。
小隊のマスコット的存在の東原ののみその人であった。
「どうぞ、鍵はかかってませんよ」
ののみを部屋に促がすと、善行は再び机に向かって書類整理を再開した。
戻り際にののみの方を見やると、彼女の手には古ぼけたスケッチブックと、色数が足りないであろうクレヨンの箱が
大切そうに握り締められていた。
「えっとね、いいんちょ。頼みごとがあります」
珍しく、難しい物言いをするものだ。
善行は僅かに口端を綻ばせつつ、向き直す。
「頼み事…ですか? なんでしょう」
「えっとね、きょうはなんにちだかおぼえてますか?」
「えっ、今日は…6月の15日ですが何か?」
「えっとねうんとね、たかちゃんが言ってたのよ。きょうはおとうさんの日なんだって。おとうさんにかんしゃする日なのよ。
でもね、ののみにはおとうさんはいないから、きょうはいいんちょに恩返しなのよ」
「はいっ?」
善行は一瞬自分の耳を疑った。父の日だということは確かに覚えてはいたが、何故それが自分に繋がるのか、
まだ理解できずにいた。まだ、彼女のような年頃の女の子を娘に持つほど、自分は老けていない。
「何故私…なんです?」
「いいんちょはいつもお仕事一杯してお疲れさまさんなの。それにいいんちょは、このしょーたいの保護者みたいだなって
たかちゃんも言ってたし」
(保護者…ですか。まあ、10以上も年の離れた子たちと共に生活していれば、必然的にそう見えるのも仕方ないですねえ…)
善行は保護者呼ばわりされていることに、微妙に違和感を覚えつつ、軽くため息をついた。
「それで、頼みごととは何です?」
ずり落ちそうになる眼鏡を鼻先に戻し、表情を悟られまいとしつつ話を続ける善行。
「えっとねー、いいんちょのにがおえを描かせてほしいのよ。駄目?」
「似顔絵…ですか? ええ、構いませんよ。といっても仕事が溜まっていますからあまり相手できないですけれど」
「いいのよ、いいんちょはそのままで。いいんちょのお仕事してる姿を書くから」
「そうですか、では出来上がるのを楽しみにしてますね」
「うんっ! ののみがんばるからね!」
善行はののみに、簡易的な椅子と机を用意してやると再び書類に目を通し始めた。


ののみはさっそくスケッチブックから適当な空白のページを選び、不揃いの長さのクレヨンの中から、
黒色を取り出すと、お絵かきに没頭し始めた。
善行は仕事に精を出す傍ら、この幼い画伯の行動を興味半分で見つめていた。
所々擦り切れたスケッチブックに、長さのバラバラのクレヨン。戦時中ということもあり、
思うように資材が手に入れることができないのはわかっていたが、こんな年端もいかない子供の遊び道具すら
まともに揃えることができないほど、戦争の影響が出ているのかと改めて感じ、善行は自分の不甲斐なさを恥じた。

作業を開始してから二時間が経った頃、加藤が司令室に入ってきた。
「委員長ー、この書類に印鑑をもらえますかー。ってののみちゃんやないの。何してはるの、こんな所で」
「あっまつりちゃん! えっとね今いいんちょのにがおえ描いてたのよ」
「へえー、あんさんも物好きやねえ。どれどれ…」
「あっまだ見ちゃめーなのよ! いいんちょがいちばん最初なんだから」
ののみは小さい身体で必死にスケッチブックを隠すように覆いかぶさった。
「なんやの、けちー。まあええわ、ほなきばってやー」
ひらひらと手のひらを動かしつつ、書類を善行に手渡すと、机に向かい帳簿付けを始めた。
「ふえぇ、危なかったのよー。えへへ」
ふと善行と目が合ったののみは、可愛く舌を出して微笑むと再びクレヨンを握り締めて描き始めた。



さらに五時間ほど経過しただろうか。
いつの間にか加藤は定時で上がると瞬く間に新市街へと消え去り、再び司令室にはののみと善行だけとなった。
ひとまず今日の仕事をあらかた終えた善行は、大きく背伸びをして身体をほぐしつつ、ののみの方をみやると
何時の間にかののみは寝てしまっていたことに気付く。
黙々と熱心に描いていたので、善行も声を掛けるのをためらっていたが、仕事を片付けているうちに寝息を
立てていたことに気付かなかったようだ。
肝心の絵の方はどうやら既に完成していたようで、スケッチブック一杯にはみ出るほど描き込まれていた。
何か文字を書いていたようだが、ののみの身体が重なってよくみえない。
静かに寝息を立てているののみをこのままほっとくわけにもいかず、今日は彼女の家まで善行自身の手で
連れて行く羽目になった。
いつもなら彼女のお目付け役の瀬戸口に任すところだが、今日に限って何故か彼の姿が見えない。
善行はののみを起こさないように、慎重に抱きかかえて運ぼうとすると、次の瞬間ののみが抱きついてきた。
「…おとーさん…」
ののみは小さくそう呟くと再びまた寝息を立て始めた。このまま抱きつかれたままで運びづらいので
おんぶする体勢に変える善行。小さな心臓の鼓動が背中を通して伝わってくる。
「やれやれ…これでは本当にお父さん代わりですね、今日は」
善行は苦笑を浮かべつつ、スケッチブックを小脇に挟もうとして改めて内容に目を見やる。
そこには大きく「いいんちょ、大好きなのよー」と書かれていた。しかもハートマーク付きで。
善行は緩みがちになる頬をこらえつつ、ののみをしっかりと抱きかかえて司令室を後にした。



やがて夜の帳が下りる頃、二つの影は一つに重なり消えていった。
それはそれは、月が綺麗な夜の出来事だったとさ。



〜終〜